不自由な雨曝し

徒然なるままに、惰文を貪る。

過去は死物

「過去は死物だ」という考え方を持っていました。今はそうでもないですが、当時は結構頑なだったような気がします。

過去の栄光に縋って、現在を疎かにする事はいけない。

過去の傷を引きづって、現在も身動き取れないのもいけない。

そんな風に考えていました。

もちろん、経験値や価値観の形成としては、過去はとても大切なんですけどね。そこまで、考えがいたっていなかったですね。

しかしながら、現在でも意外と頑ななのが、写真です。ほとんど写真を撮らないですね。特に自分が映り込んでいる必要性を感じないのです。

アーティストのライブのセットリストや綺麗な風景は、撮ったりするのですが、そこに自分がいた「証拠」は必要ないです。

写真って何の意味があるんですかね? 思い出ってなんですかね?

昔の写真を見て、「わー若いなあ!」とか「あの時は、楽しかったなあ!」とか、ですかね? これは、否定をしている訳ではなくて、本当に意味が分からないのです。

確かに若い時は、必要以上に写真を撮っていた気がします。でも、今は一枚も残っていません。全部捨てましたね(消去)。高校の卒業アルバムも処分してしまい、母親に叱られた事を思い出しました。

昔の自分を見て、「よし! 明日からも頑張ろう!」と、思えるなら、必要なものだと思うのですけど。昔の写真を見て、心がほっこりするなら、大切な物ですね。

きっと、僕はそうはならないです。人の昔の画像を見せてもらうのは、楽しいですけど。

人の写真を撮りたがる気持ちは、どうすれば理解できるのでしょうか?

 

今日、仕事からの帰り道、そこそこ大きな川を渡る橋を通過している時です。街灯もまばらで、見えにくかったのですが、二人の女子中学生がいました。たぶん、中学生くらいだと思います。彼女達が、暗くなった空に向かってピースをしていました。何をしているのだろう? と、目を凝らしてみたら、空ではなく片方の子がスマホを構えていました。しかも、まだ眺めの良い(もう暗かったですけど)川をバックにするのなら、100歩譲って分かるのですが、こちら側に向かって撮っていました。普通の道路ですけど。カッコ良い車が走っていた訳でもないし、何を撮っていたのでしょうか?

きっと、場所や時間は、関係ないのですね。今この瞬間、君といられることの喜びを記念に残そうみたいな事ですかね? まあ、そこまで、重々しくないのでしょうけど。

彼女たちは、今日撮った写メをいつまで残しておくのでしょう? 大人になって、結婚して、子供が生まれて、子供が中学生になった時に、「これがお母さんが、〇〇ちゃんと同じ年の写真だよ。若いでしょ? 隣に写っているのは、親友の△△ちゃんだよ」と笑いながら、話したりするのでしょうか?

そんな場面を想像すると、とても素敵です。

あ! 写真って良いものですね。

 

現在、大成功している人に、「〇〇歳の時何をしてましたか?」と、質問すると、「〇〇歳の時は、~~が、したかったな!」と、答えるそうです。

「何をしていたか」ではなく、「何を考え何を望んでいたか」という事を言うそうです。ちなみに、この大成功している人とは、松本人志さんと北野武さんです。

僕も10年後、20年後にあの時何をしてましたか? と聞かれたら、「いやー作家になりたくて、いい歳して夢見て頑張ってたよ。まあ、そのお陰で、今があるんだけどね」なんて、言えるようになりたいものです。

過去にこだわる気はないのですが、過去を粗末にするのは、ダメですね。

現在が最重要! である事は確かですが、過去・現在・未来と地続きになっている事の意味をもう少しだけ、考える必要があるのかもしれません。