信じる者は救われる?
今日を含めた三日間、仕事で宗教施設の年末メンテナンス清掃を行ってきました。
この時期の恒例行事的な仕事です。
この施設は、とにかく土地が広い。メンテナンスを行うのは、五階建ての本部なのですが、敷地内には、信者(と呼んで良いのかわかりませんが)用のマンションまで建っています。白い法被のようなものを着ています。
そこのお婆さんが、毎朝元気よく挨拶をしてくれるのですが、いつも大声で歌を歌って、ご機嫌そうに掃除をしています。
この三日間、毎日でした。
幸せそうだなあ!と、見る度に思っていたのですが、それはやはり自分が信じる神様?宗教の教え?が、あるからなのでしょうか?
宗教というと、日本では、あまり良いイメージではない印象があります。
僕は、無神論者なのですが、親は神様を大切にしています。
仏教なので、仏様でしょうか?特に、母方の家系が熱心な仏教徒ですね。
叔父さんが、お坊さんですし。結構有名な凄い人のようです。
僕は、数回しか会った事がありませんけれど。
何やら、お坊さんの雑誌があるそうで、その表紙を飾る程の人だとか。
数年前に、母方の祖母を亡くし、そのお葬式で、たぶん物心がついて初めて会ったのではないでしょうか?お葬式で、お経を唱えていました。
そこで、母がこう言いました。
「私の葬式では、〇〇君(そのお坊さん。母の弟です)に、お経を上げてもらうだけで良いからね。普通に上げてもらったら、うん十万かかるから」と、言っていました。
父に至っては、子供心に覚えている事があります。
それは、仕事から帰ってくると、真っ先に神棚に手を合わせていました。
不思議な世界です。
信じる者は、救われるのでしょうか?
母は、様々な節目で、祈ってくれているようです。
だからなのかは、定かではありませんが、大きな怪我や病気をせず、この年まで健康に生きてきました。大成をしていなければ、所得格差の底辺を這いつくばって生きていますけれど、幸せに暮らしています。
僕は、真剣に神様に祈った記憶が、ほとんどありません。
初詣で、予定調和的に手を合わせた事は、ありますが。
ここ10年くらい、初詣すら行ってないと思います。
神様は、ある意味ファンタジーであると、捉えています。
別に、非科学的な物事を否定はしていません。
ファンタジーは大好物ですしね。
うーん。。。神様って本当にいるのでしょうか?
もし、いたとしたら、あまりにも不公平なような気もします。
しかし、神様を信じて、幸せな人生を送っている人がいる事も事実ですし。
結局のところ、神様もヒーローも「あなたの心の中にいる」という事でしょうか?
全ての幸福が、神様のお陰であったら、流した汗水や涙は、なんだったのか?と、なりますし、難しい世界です。
結果、人様に迷惑をかけなければ、何を信じようが、個々の自由という訳です。
周りがどう思おうが、自分が信じて、心が満たされたのならば、幸せを実感できるのであれば、全て良しということですね。
でも、信じるってある意味「思考停止」のような気もします。
これは、僕の独断と偏見に満ち満ちていますが。
疑うのって正直、面倒臭いんですよね。
裏を探ったり、駆け引きしたり。
だから、僕の場合、疑いません。
最初から、信用しないからです。
僕の基準は、分かり易くて、金銭的な負担です。
お金を騙し取られなければ、まあ良いかなと。
幸い、今のところ、実害はないと思います。
何を信じて、何を信じないか。
結局のところ、「自分」を信じる事が大切ですね。
信じる、信じないの基準は、やはり価値観だと思います。
価値観とは、自分の経験で形成されるものなので、様々な事を経験し、思考の幅を広げる事が大切ですね。
「分からない。知らない」=「胡散臭い。信用できない」では、自分の知識のなさ、経験の浅さを露呈しているようなものですしね。
経験値は、年齢は関係ないです。
自分の知らない、分からない知識や経験を自らの手で掴みにいくかどうかなので。
無駄に時間だけを浪費してきた人間を沢山見てきましたからね。
それを俗に言う「老害」と呼ぶのでしょう。
老害と呼ばれない為に、知的好奇心を旺盛にして、日々を生きていきたいものです。
まずは、自分と自分の未来を信じる事から、初めて行きたいです。
自分を信じられない人は、救われない。
自分の人生なのだから、せめて自分くらいは、自分を信じてあげたいものです。